私の歩んできた道 第2回
微小振動の研究と情報メカトロニクス機器開発
東京大学名誉教授、特定非営利活動法人ウェアラブル環境情報ネット推進機構 理事長 板生清
日本電信電話公社に入り、前半の10年間はちょうど、黎明期であったデータ通信システムの基本端末であるキーボードプリンタやワイヤドット漢字プリンタを研究から開発まで手がけた。後半の10年は行政システムや全国銀行システムに使われる巨大コンピュータ用の大容量記憶システム、電子交換機用の光ディスク装置、LANやパソコンに使われる小さい光ディスク装置などの企画から製品化までを手がけた。ほとんどの期間、新製品の研究開発に携わり、技術開発の大目標は常に「高速・高精度」の実現であった。
しかし、1992年に大学へ移り、この時点で私は価値観の大転換をした。従来の「高速・高精度」路線から「低速・低精度」路線への180°の転回であった。さらに言えば「ハイテク工学製品対応技術」から「人間・生物・自然対応技術」への転換であった。これは剛から柔への変化でもあり、ソフトな機械をめざすことでもあった。
生物は微小な細胞の集まりで構成された巨大システムである。これを機械の世界に翻訳するならば、可能な限り微小化された機械素子の組み立てによる新しい機械システムの構築ともいえるであろう。さらにこの機械素子が自ら微小振動をすれば、まさに生物の細胞のように“命”を与えられる。このように“命”を与えられ“機械細胞”が多く集積されてセンサ・アクチュエータなどのデバイスが形成され、さらにはこれらが組み合わされて柔らかい機械システムが誕生するといえる。
情報社会を迎えて機械と人間・自然とのかかわりがより重要な研究課題となってきた。インターネット時代に入ると個人の個々の小さな要望にきめ細かく満足ゆくまで対処がなされ、かつ社会のマクロなニーズに全体として整合がはかれることが可能となる。このような社会を実現する1つの手段として情報マイクロシステムの構築が不可欠であった。これは、広帯域・大容量通信技術、移動体通信技術、超LSI技術、光部品技術、マイクロマシン技術の総合化により実現可能となった。人間とのインターフェイスをつかさどる情報機器も多様化し、マイクロ化の過程にあり、とくに生物にも学ぶ、柔らかい小さな機械、低消費エネルギーの機械をめざすとき、生物の動きとそのしくみをよく研究することが重要である。よく考えてみれば自然界は微小振動抜きには語れないといっても過言でない。太陽系から分子・原子のレベルまで、さらには、生物のすばらしい動き、生物のリズムなどすべて微小振動抜きには考えられない。そもそもホイヘンス、エジソン、ベルなどの先人は微小振動を活用した情報家電のルーツを実現したともいえる。振り子時計、蓄音機、電話機などはまさに微小振動の世界である。
時代は下って、情報時代に入り、人間の五感に対応する感覚情報機器は微小振動を活用してきた。電話(耳、口)、ディスプレイ・プリンタ(目)、匂いセンサ(鼻)、触覚センサ(皮膚)など微小振動の恩恵にあずかっている。まだ他にも走査型プローブ顕微鏡でナノの世界をのぞいたり、細かく動かしたり発電したりというエネルギー分野の精密情報機器も微小振動を活用している。このように情報機器のミニチュアリゼーションとともに、機械はあたかも生物をまねるかのように微小振動をベースに構成されるようになってきた。
以下に私の研究を振り返る。まず、東京大学での修士論文では、時計に使われている水晶振動子の微小振動、消費エネルギー最大の運動としての共振などを数式的に扱った。さらにもう少し進めると微小振動子の振動によるエネルギー散逸の実際を弾性波、空気抵抗、振動子内材料摩擦熱に分解して定量的に記述した。これらの知見からエネルギーからみた微小振動子設計論をとりまとめた。とくに単一振動子だけでなく複数の並列振動子の連成によるエネルギー流出なども考えた設計論を展開し、精密工学会誌の論文とした。
ここまでは連続運動における振動問題であったが、さらにもう1つのテーマは、間欠運動における残留振動問題であった。そこで安定位置決めのための微小振動の役割を研究した。あらかじめ設定された条件で動くときには、間欠運動直後に残留振動が出なくても、設定条件をわずかに外れると大きな残留振動が現れるケースが多い。しかし、わずかな微小振動を許容する設計に変えると広く安定に位置決めできることを示した。まさに微小振動を抑圧するのではなく、活かすことによって系の安定化が得られる。さらには積極的に活用するならば摩擦のある系での微小振動による安定位置決めが実現できる。この研究成果をカム機構による位置決め技術としてとりまとめ、20字/秒プリンタを実用化した。さらには光ディスクのピックアップの2次元位置決めとして、光ディスク記憶装置を実用化した。これらは精密機素(2)メカトロニクスのメカニズム(コロナ社)として出版した。
人間は機械を発明することにより肉体的な限界を乗り越えてきた。眼鏡、双眼鏡、顕微鏡、望遠鏡、補聴器、電話、テレビ、コンピュータ、自動車、飛行機など枚挙にいとまがない。なかでもコンタクトレンズや耳の中に入る補聴器などは人間と機械の境界が明白ではなく、心臓ペースメーカなどの人工臓器に至ると、ますます境がなくなってきた。人間や動物にチップが埋め込まれる日がくるとすれば、次々世代の情報機器はウェアラブルから人間・機械一体型の情報マイクロシステムとなると考え、1990年にウェアラブルコンピュータの研究開発に乗り出した。